三浦洸一さんを偲んで
昭和が生んだ大スター歌手・三浦洸一さんがお亡くなりになりました。
謹んでご冥福を祈りいたします。
三浦洸一さんとビクターとの御縁は、今から74年前の1951(昭和26)年になります。
当時、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の学生だった三浦さんは、その年の秋にビクターのオーディションを受けて見事合格。プロ歌手としてデビューするために築地にあったビクター・スタジオに通い始めます。そのときの三浦さんの出で立ちは、詰め衿の学生服姿であったそうで、おかげでたいへんに目立っていたと、ご本人も回想していらっしゃいました。実直な三浦さんらしいエピソードです。
ほどなく恩師となる吉田正から声をかけられ、名歌手を多数輩出した「吉田学校」の第一号生徒になります。三浦洸一さんは音楽学校で声楽を学んではいましたが、流行歌を歌いこなすための発声や唱法は声楽のそれとは別物で、習得するのに大変な苦労をされたそうです。吉田正のもとでみっちりと修行を重ね、1952(昭和27)年に正式にビクターに入社、翌1953(昭和28)年5月、「さすらいの恋唄」で記念すべきレコード・デビューを果たしました。
同年9月には「落葉しぐれ」を発表、これが大ヒット曲となり、一躍人気歌手の仲間入りを果たします。「落葉しぐれ」から翌年末までに発表した新曲(共演曲を含む)はなんと35曲に及びました。単純計算で、1か月に3曲の新曲を出していたことになります。この驚異的なペースはいかに三浦洸一人気が絶大であったかの証左でしょう。そして1955(昭和30)年に発表した「弁天小僧」は国民的ヒット曲となり、大スター歌手としての確固たる地位を築きます。
昭和30年代には、同じ吉田学校で修行を積んだフランク永井、藤本二三代、松尾和子、橋幸夫、吉永小百合、三田明、古都清乃と、スター歌手たちが次々とデビューします。三浦洸一さんは「吉田学校」の最上級生として吉田正から大いに頼られるとともに、後輩歌手たちからもたいへん尊敬され、慕われておりました。吉田正は三浦さんについて「まるで謹直さを絵に描いたような人柄の好青年だった」とのちに回想しておりますが、師弟間の絶大な信頼関係は、三浦さんの人となりがあったからこそだと、誰もが信じて疑いません。
真摯に、そして謙虚に歌と向き合い続けた三浦洸一さん。清廉なお人柄そのままの澄み切った歌声は、日本流行歌史に燦然と輝く至宝です。長きに渡りそうであったように、これからも私たちを魅了し続けることでしょう。
三浦洸一さん、本当にありがとうございました。
CDアルバム「日本の流行歌スターたち(31) 三浦洸一 落葉しぐれ~タローとジローは生きていた」
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