グラビアアイドル雛形あきことデジタルミュージックの融合
アーティスト・コラム

グラビアアイドル雛形あきことデジタルミュージックの融合

雛形あきこMV配信にあたって、当時の制作スタッフに歌手・雛形あきこの魅力とエピソードを振り返ってもらいました。

 

浅倉大介氏との出会い

90年代のグラビア黄金時代を牽引したイエローキャブ(サンズ)の野田義治社長によって見出された雛形あきこは、同事務所で既にブレイクを果たしていた堀江しのぶ、細川ふみえ、とは一線を画した天然キャラのタレントとして独自の路線を切り開いていました。グラビアだけでなく、末永く芸能界に生き残ることができるマルチなタレントとして育成を図るにあたり、CDデビューのお膳立てがされることになります。当時の音楽界は小室哲哉が一世を風靡しており当然のごとくプロデューサー候補に名を上げますが、一つの色に染めたくはないという野田社長の意向もあり、小室ファミリーの中でも多彩な才能をもつ浅倉大介氏が起用されることになります。スタッフ陣も音楽業界のエキスパート達が集められ、中途半端では終わらない野田社長の本気の姿勢がそこに現れていたと思われます。ここに、プロデュース:浅倉大介、企画:ケイダッシュ、制作:ビクター、マネジメント:サンズという布陣で雛形あきこプロジェクトが始動しはじめました。

歌手、雛形あきこ誕生

デビュー曲に用意された「笑顔の予感」は、浅倉氏のデジタルサウンドと年頃の女心を歌うポップなサウンドで、既存のファンの心をわしづかみするかと思われましたが、意外にもイベントでは女の子の姿が多くみられました。グラビアアイドルではなく、いちタレントとして認識されてきた証でもあったと思われます。
これまでカメラの前でしか仕事をしたことがなかった雛形は、歌手として初めてお客さんの前に立つことになりましたが、たくさん集まったファンを目の前にして初めて自分が人気者であることを実感したといいます。
阪神・淡路大震災の翌年のこと、キャンペーンで訪れた神戸のショッピングモールはまだ震災の傷跡が残っていて、雛形本人もその光景に心を痛めたようです。イベントでは、自分が元気を与えなければならないのに、集まった熱心なファンの声に頑張る勇気をもらったとスタッフに伝えていたようです。いつにも増して丁寧にファンのサインに応じていた姿が印象的でした。

レコーディング

当時の雛形は人気絶頂のころ。1日に何本もの撮影、取材、テレビ収録。音楽に専念する時間は与えられず、レコーディングが深夜に始まるのは常で、明け方にボロボロになって帰っていくという毎日でした。それでもスタジオに入ると、歌詞のニュアンスや歌いまわしなどに注文を付けるディレクターの指示を受け止め一生懸命に歌に取り組んでいました。
深夜にしかスタジオに現れないため、某スタジオでは「丑三つ時の女」と呼ばれていました。
浅倉氏のレコーディングスタイルは「ぷよぷよ」で気持ちを高めてから始めるのがルーティンで。小一時間プレイして温まったころから作業を始めて、作業が終わるまで一切食事も休憩もとらないため、空腹を我慢できなくなったスタッフは、こっそり抜け出して食事をしていたそうです。スタジオには「ぷよぷよ」のほかにも浅倉氏の私物のゲームが多数キープされいて、時々姿を現す雛形も、曲が出来上がるまでの間それをプレイして息抜きをしていました。

ビジュアルの差別化

歌手としての雛形は、シングルごとに、緻密に計算した衣装やヘアスタイルを身にまとっていました。グラビアで魅せる「セクシーな雛形あきこ」とは一線を画し、歌手としては浅倉大介のサウンドに寄り添った、ハイパーで透明感のあるビジュアルを提示していました。

歌手引退

巷では、野田社長に自ら引退を申し出た。とされているようですが、実は、あまりに多忙な雛形を見るに見かねたスタッフが「もういんじゃないでしょうか。」とマネジャーを通じて伝えたのが本当のところ。ビジネス的には、イベントの集客力があって利益も出して、まだまだ継続すべきだったかもしれませんが、彼女の未来を考えた末に現場が出した苦渋の決断でした。ちょうどアルバムとビデオを2本リリースした後で区切りもよく、雛形プロジェクトは解散することになりました。
95年8月~96年12月わずか1年の短い期間でしたが、20年経った今もタレントとして活躍し続ける姿を見ると、音楽の世界を経験することができたこの色濃い1年間に、たくさんの事を学んだんだろうと思わずにいられません。

<MVプレイリスト>
雛形あきこSingles Music Video

<音源配信>
『ゴールデン☆ベスト』